Naitter【泣いた】

ハガキを出し間違えて8歳で芸能界入り、20代で全てを失った小橋賢児の現在

ハガキを出し間違えて8歳で芸能界入り、20代で全てを失った小橋賢児の現在

ハガキを出し間違えて8歳で芸能界入り、20代で全てを失った小橋賢児の現在


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ちゅらさん”。響きだけで懐かしさが込み上げてきませんか…。2001年にNHKの連続テレビ小説として放送されたことはお馴染みですが、人気の高さからその後数年に渡って続編がシリーズ化、実は朝ドラ史上初のパート4まで制作されています。朝ドラ界の革命児ともなった作品といっても過言ではありませんよね。

出典 https://twitter.com

“えりぃ”こと上村(古波蔵)恵里役のヒロイン・国仲涼子さん。ぴったりと寄り添う“おばぁ”こと平良とみさんが6日、沖縄県で亡くなられたとの報道に胸が詰まされる想いです。ナレーションで、“えりぃ”と語りかけていた優しい呼び声を、今でもはっきりと覚えています。そして、同じく早すぎる死に日本中が涙した、お母さん役・元キャンディーズの“スーちゃん”こと田中好子さんの笑顔に、訃報当時の悲しみを思い出さずにはいられません。

ドラマという概念を越え、沖縄のどこかで“えりぃ”たち家族が今でも暮らしているのではと、そんな気にさせてくれる作品だったのではないでしょうか。そんな“えりぃ”の初恋の相手にして、生涯のパートナーとなった“文也くん”、いましたよね!

出典 https://www.nhk-ondemand.jp

ああ、この2ショット(涙)。上村文也役の彼こそ、小橋賢児さん。涼しさと穏やかさが同居したような表情に魅了されました。現在、36歳になっている小橋さん、どんなナイスガイになられているのか気になりませんか…!

出典 https://www.facebook.com

ありがとうございます。久しぶりに小橋賢児さんの今に触れた方も多いかもしれません、期待を裏切らないどころかイイ男に磨きがかかっていました。もともと美貌を誇る小橋さんですが、その深い眼差しには、私たちが知らない間に人生経験を詰まれてきたのではと感じさせるものがあります。そこには、朝ドラの主役級をつとめるという栄光を得ながらも、挫折と苦しみにもがき続けていた空白の時代が存在していました。

勘違いして出した一枚のハガキ。8歳で芸能界へ

きっかけはバラエティー番組のオーディションに観覧募集と勘違いして応募したことでした。たまたま両親がその日家にいなくて、夕方学校から帰ったら好きなテレビ番組が「レギュラー募集中」というお知らせを出していました。

出典 http://www.nikkei.com

ただ、僕の両親は共働きで、家も裕福ではありませんでした。大田区にある戦時中から残っている、床が抜けているような古い家を借りて暮らしていたんです。そんな状況だったので、オーディションに合格してレギュラーに決まっても親の送り迎えは当然ありませんでした。僕は自分で電車に乗って地図を見て、わからなくなったら人に尋ねながら週に一度、テレビ朝日に通っていたんです。

出典 http://www.nikkei.com

まずは、小橋賢児さんの奇跡をおさらい。ひょんなことから、8歳で芸能界入りすることとなった小橋さんは、裕福とはいえない環境に加え、芸能活動は100回に1度オーディションに受かる程度。決して芸能活動だけで自分のための十分なお金を確保出来るわけもなく、新聞配達や当時原宿の“テント村”と呼ばれる一角でシルバーアクセサリーを販売する中学時代を送っていたといいます。

同時期に5本のドラマを抱える、THE売れっ子俳優に!

出典 http://news.goo.ne.jp

『人間・失格〜たとえばぼくが死んだら』『若葉のころ』、そして岩井俊二監督の『if もしも』『打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?』『スワロウテイル』など立て続けに出演するようになり、同時期に5本のドラマを掛け持つ売れっ子俳優へと変貌していきます。

「だんだん無関心になってくるんです」

出典 http://www.onitsukatigermagazine.com

普通の学生生活を送っていなくて、自分の将来を考える余裕もないまま仕事に追われて、気づけば20代前半。「こんなことできるんじゃないか」「あんなこともやってみたい」と思いながら、毎日の忙しさを言い訳に先延ばしにしていたんです。

出典 http://moutakusanda.com

そんな状況が続く中、自分の感情を抑える癖がついていったという小橋さん。有名人ゆえに会いたい人とも会えない、好きな場所に出掛けることすら狭まれる。8歳からわずかながらとはいえ収入を得て自立した幼少期を過ごしていた小橋さんにとって、意思を奪われることはストレスを加速させる一方でした。

考えることそのものをやめるようになりました。何かに反発するから痛い。我慢するから苦しい。だったらその元になる「欲」を捨てることが一番楽だと思ってしまったんですね、その時は。

出典 http://www.nikkei.com

「自分のアンテナが鈍っていくことが怖かった」

出典 http://moutakusanda.com

このまま30才まで芸能界で頑張ってそれなりのポジションと生活を得たとしても、きっと自分の心は喜ばないままだ、そうまでも追いつめられた小橋賢児さんは、26歳にして芸能活動を休止。周囲の後押しもあり、「how much?」ぐらいしか英語が話せない中、ネパールへと発つことを決意します。

ネパールで自然の素晴らしさを感じて過ごすうちに、自分の心が開けていくのを感じましたね。

現地で同い年の男の子と仲良くなって、僕が「夕日見るのが好きなんだ」といったら、バイクで景色のいい丘に連れて行ってくれて。そのときに、なぜか彼の背中が大きく見えて号泣しちゃったんです。人間力っていうのかな、生きる力とか、誰かを守る愛とか。力強さを感じて。

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解き放たれた想いで帰国するも…

出典 http://www.tfm.co.jp

俳優の仕事に戻ったんですが、すべてが嘘くさく見えてしまって。「みんな芸能界にいるために、自分をごまかしていないか?」って。自分自身に対してもより強く思いましたね。とにかくいろいろなものに違和感を感じて。

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結局、自身の感情と置かれている環境の溝を埋められていなかった現実を突きつけられることに…。ですが、その中にも“このまましがみついていても先が見えている。それならもう、どんどん行っちゃえ!”という想いが宿っていたそう。もう二度と、自分に芽生えた感情に蓋をしない。小さな気付きに忠実に、再び渡米し、アメリカ横断を試みます。そして、ゴール地点のマイアミで…。

偶然『Winter Music conference』が開催されていて。そこで仲良くなったDJに『ULTRA MUSIC FESTIVAL』を教えてもらったことから、世界にはこんな楽しい音楽のイベントがあるんだってことを知り、それを日本の人たちに発信したいという気持ちになりました。

出典 http://www.oricon.co.jp

再び海外に出向いて、いろんなイベントに参加したり、そこで感じたことを興奮しながら、飲みの席とかで語っていたんですが、最初はみんな興味を持って聞いてくれていたのに、1時間ぐらいしたら退屈そうにしだして。

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遂に、20代最後にして全てを失うことに

出典 http://gensun.org

海外にいる時は何でもできるような気がするけど、いざ日本に戻ってきたら社会の現実に対面して。「じゃあ具体的に何をしようか」っていうところで壁にぶつかっちゃったんです。

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日本に戻ってきて、自分で会社を立ち上げ、いろいろチャレンジしたんですが、結局どれも宙ぶらりんなままで。気付いたら貯金は底をつくし、仕事はないし、人間関係もグチャグチャになるわで、もう散々でしたね。それで肝臓を壊してしまい、2ヶ月くらい実家でほぼ寝たきり状態

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8歳というあまりに幼すぎる時期から俳優一筋だった小橋賢児さん。どれだけ世界に感化されても、狭い現実の壁を乗り越えられないという葛藤に苦しみ続ける数年間でした。

一度落ちた経験は決して悪くなかったですね。落ち込んだときって、細かい感情の動きに敏感になるんですよね。落ち込んだ中でも小さく気分が上がったり、またふさぎ込んだりする自分を強く感じられる。自分だけじゃなく、人の心の動きに対しても。

最悪な時期って、次のステップに進む直前まで来ているサインだと思う

出典 http://moutakusanda.com

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実際に体験していない人に、その良さを語られても想像できないですよね。だったら、もっとわかりやすい形で伝えたいと思って、撮りためていた映像に音楽をつけて、5分くらいのDVDにまとめて渡したら好評で。そこから無料講習に通ったりしながら、独学で編集技術を身につけて、気付いたら自分で映画まで撮るようになっていました

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“自分の感動を多くの人たちとシェアすることができたら”という想いから、2012年には『DON’T STOP』で映画初監督に挑戦。そして、悲願の世界最大級のエレクトロダンスミュージックフェスティバル『ULTRA MUSIC FESTIVAL』の日本でのクリエイティブディレクターをつとめるまでに飛躍を遂げます。

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以前の僕は、高い目標を設定して、そこにたどり着けなかったら挫折して……という繰り返しでした。この頃から後先を考えず、とにかく今を楽しもうとマインドチェンジしていったら、映画やイベントの仕事へ自然とつながっていったんです。

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『ULTRA JAPAN』は“SNS”で絶対に成功する

2014年の『ULTRA JAPAN』初上陸を成功させた小橋賢児さん。今年も開催された同フェス、“ウルトラ”の響きに心当たりがある方も多いかもしれません。それが小橋さんが立役者となっていたとは正直驚きではないでしょうか。

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SNSの利用者の多くがフェスに行っているという話も聞きます。数年前までは、EDMなどのクラブ音楽に対して、アンダーグラウンドなイメージを持っていた人も、SNSを介してイベントをリアルに体感できるようになり、コアでネガティブなイメージが払拭されたと思います。

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ほぼ今はiPhoneとパソコンだけで世界中にいながら仕事をしている感じです。だから、何の職業になりたいというよりは、僕にしかできない職業ができたらいいなって思います。その職業が道となって、ほかの人たちに新しい方向性を提示できたらいいなって思いますね。

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情勢に乗ることはもちろんですが、過去の経験から培った直感や感覚を信じて挑戦しているそう。今後も感性に忠実に、フェスだけでなく様々なことを計画しているそうで楽しみでなりません。

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私たちの記憶にあった“小橋くん”には、耐えきれぬ程の葛藤を抱え、そして芸能活動を休止し、もがいては挫折を繰り返していた過去が存在していました。8歳から芸能界という特有の世界に入り、メディアでは涼しい笑顔を振りまきながらも感情が動かなくなっていくという苦しみはとても計り知ることは出来ません。

一度全てを失い、どん底を経験…。ですが、自意識をチェンジアップさせて、若者たちが待ち望むイベントのプロデューサーへと変貌。俳優、DJ、映画監督など、多角的な立場から今を発信し続けようとする意志に、尊敬の念を抱いた方も多いのではないでしょうか。“あの頃”から深みを増す一方の小橋賢児さんに、今再びハマり込んでしまいそうですね